時代を通じて

 

シャトーヌフ・デュ・パップの土壌を発見したのは、14世紀にアヴィニヨンにやってきた歴代法王たちである. ジョン22世の法治下、シャトーヌフ・デュ・パップの村は法王庁の夏の別荘となり、この土地で生産される高貴なネクターは《法王のワイン》として知られるようになった。このことはヨーロッパの宮廷の扉が開かれるきっかけとなった。

ガロ・ロマン時代、シャトーヌフ・デュ・パップの村にすでにぶどう畑が植えられていたことはほぼ確実である。それを証明する書面での記録は1157年に遡る。アヴィニヨンの司教であったジョフロワは領地内にぶどう畑を所有し、その土地の伝統に従ってぶどうを植え、自ら畑の管理を行っていたという。14世紀以降は法王たちが、この土地のワイン生産活動に本格的にかかわるようになる。
1314年、初のアヴィニヨンの法王 であったクレモン5世がシャトーヌフ・デュ・パップの土壌の豊かさを発見する。彼を継いだジョン22世の時代にワイン生産業は本格的に促進され、他の地域でもその名声は広まった。
ジョン22世はシャトーヌフの村の高台に頑丈な城砦を建設したが、ここは時とともにアヴィニヨン法王庁へ着任する歴代法王たちの夏の別荘として使われるようになる。そして法王のワインとして認識されたこの村のワインは徐々にアヴィニヨン法王庁での重要な食事会の際にも供されるようになる。その量は年々増し、1年に3000リッター以上にもなったらしい。外国の大使や宮廷関係者を招待しての祝祭事や晩餐会でもこの法王のワインはサービスされ、その魅力に取り付かれた客人たちは自国に戻ったときにその素晴らしいワインのプロモーションをしたという。そのおかげでとても早い時期から、イタリアやドイツ、イギリスなどへシャトーヌフ・デュ・パップのワインは樽ごと販売されていった。数十年後には大西洋を越えてアメリカ大陸へも渡ることとなった。