商売の開花

 

様々な点において先見の明があったシャトーヌフ・デュ・パップのワイン生産者達は18世紀の終わりには、ボトリングワインを販売するようになる。このことはシャトーヌフ・デュ・パップのワインの名声を更に高める新たな第一歩となった。


16世紀の宗教戦争の間、このワイン生産活動は一時期陰りを見せる。18世紀に入り、再び活性化、ぶどう畑の面積も広がっていく。当然、ワイン販売も大きな勢いで伸びていった。すでにこの時期、このクリュの生産者達にはパイオニア精神が宿っていた。1776年にはシャトー・ラ・ネルトは樽に変わってボトリングワインを出荷するようになっていった。

1793年に発表された制定で高級クオリティワインとして認識されたシャトーヌフ・デュ・パップのワインは、県の行政区から決められていた固定最高値を30%以上も上回る価格で取引されていたという。ワインはフランス全土のみならずヨーロッパへも販売されていった。19世紀初頭には2000HLものワインが県外地域へ販売され、その数量は年々増していくのだった。フレデリック・ミストラルは、友人のプロヴァンス吟遊詩人でありシャトーヌフ・デュ・パップ村出身の生産者でもあったアンセルム・マチューのところでここのワインを知り、それ以降はパリの詩人仲間であるラマルティーヌやアルフォンス・デュマ、アルフォンス・ドデたちにこの素晴らしいネクターで陶酔させ、次には彼らがこの《帝国の、王の、法王のワイン》を賛歌して広めていったのだった。